2016年4月29日金曜日

弱く、猾く、粗忽な人間という生き物に合わせて道路を設計するという思想



このツイートを見て考えた自転車インフラの設計思想に纏わる話。連続ツイート(https://twitter.com/dc6ykjgs/status/724939988870303744)のまとめです。加筆訂正あり。



設計上、何の配慮も無い環境で自転車に車道を走らせれば、サイクリストとドライバーが憎み合うのは当然、というより、互いに敵意を持つように設計で仕向けていると言っても過言ではない。

信号待ちの車列の横を自転車がすり抜けて行くのはルール違反ではないがマナーが悪いと見做され、状況によっては事故原因にもなるので、車列の後方でおとなしく待つべきだと言われる。しかし現実には9割方の自転車がすり抜けたり、それができない時は歩道に上がって前に進んでいるというのが私の実感だ。

個々の自転車乗りの判断回路の中には、「通れる空間が有るなら進む」と「危険なら進まない」という相反する動機が有ると考えられる。大抵の人にとっては前者が優勢であり、その回路に「車列の脇にある自転車一台が通れる空間」という環境を入力すると、「すり抜け」という行動が出力される。

/* 上の部分は言語学の最適性理論が元になっています。*/

一方、知識や経験で危険回避の動機が優勢になった自転車乗りからは「車列の後方で待機」という行動が出力される。危険回避を優先する自転車乗りの目には、他の大多数の自転車乗りの行動は非難すべきものに映る。

そこで、教育や取り締まりで問題行動を矯正しようという発想に行き着く。これらの手法も交通安全政策に不可欠な要素だし、場合によってはそれしか現実的な解決策が無いかもしれない。

/* 例えば、電車の到着時に降りる人を優先するマナーは東京では割と定着しています。ただ、一部の駅では単にマナーを呼び掛けるだけでなく、電車のドアの正面が待機列で塞がれないように、ホーム上に整列位置を示すテープを貼るなど、マナーとデザインを組み合わせています。また、ホーム上の乗客も、電車から人が降り切らない内からドアに向かってジリジリと歩を進める人が多く、マナー周知の手綱を緩めれば秩序が崩壊してしまいそうな予感はします。個々の乗客にとっては、「スムーズな乗降(とダイヤ通りの運行)に協力する」という動機より、それと相反する「自分の座る席を確保する」という動機の方が重要だと考えられるからです。*/

しかし、「すり抜ける事はできるが、すり抜ける事が想定されていない空間」という入力そのものを変えた方が、個々人の判断回路を書き換えさせるより、(交通ルールを理解していない人や、危険予測力の低い人、自分勝手な人も含め)幅広い自転車利用者に効果が及び、且つその効果が安定的に持続するはずだ。

具体的にはこれ:


Protected Intersections For Bicyclists from Nick Falbo on Vimeo.

すり抜けを止めさせるのではなく、自転車が安全に前に進め、左折車(動画中では右折車)からも視認しやすい通行空間を、車道とは独立して設けるのである。そもそも、自転車(0.6m)と車(1.8〜2.5m)では占有幅が3〜4倍も違う。それを無理矢理同一のカテゴリーに入れて、同じ空間を走らせ、同じ振る舞いを求める事自体が(幹線道路では)不合理なのだ。

/* 逆説的に聞こえるかもしれませんが、「自転車も車と一列に並んで待つべし」という命題は、車道を通行する自転車がそもそも少なく、しかも殆どの自転車がすり抜けや歩道への回避で前に進んでくれているからこそ、辛うじて成立するものです(これは冒頭で引用したツイートとは文脈が違う議論かもしれません)。信号待機列に自転車が10台、20台と加わり、行儀良く車と一列に並ぶと、待ち行列が延び、自転車も車も1回の信号サイクルでは交差点を通過しきれなくなります。すると自転車利用者にもドライバーにも焦りやストレスが生まれ、確認不足や認知エラー、危険運転を起こしやすくなります。これは現実の東京の道路で、大規模なグループライドに何度か参加した私の実感です。「自転車も車と一列に」という発想は、集団の規模が変わると規則の作用結果も変わるという事を見落としている、言い換えれば、そのルールに大勢の人が従う事をはなから想定していないものだと考えられます(←国交省の自転車ガイドラインpdf pp.62-63の事よ)。*/

今度はドライバー視点から(私は車を運転しないので想像)。まず、交通量が多く速度も高い路線で、同一空間を走る自転車を何度も追い越すというのは、普通のドライバーにとって心理的な負担が大きすぎるはずだ。

/* 車線変更前の後方(と対向車線)の確認、追い越し所要時間の目算、追い越しできない状況が続いた時の苛立ち、自分の後ろが渋滞し始めた時の焦りなどを考えれば、9割方のドライバーは冷静な対処が難しいのではないでしょうか? */

また、同じ「車両」というカテゴリであるにも関わらず、自転車だけがすり抜けて前に出たり、歩道に上がって進んだり、赤信号の間に停止線を越えて前に進むのを見ると、不公平さを感じるだろう。更に、信号が青に変わって車が動き出してからも、その脇や目の前をすり抜けて前に出ようとする自転車利用者も多く、ドライバーはひやりとさせられ、強いストレスを受けているに違いない。

/* 冒頭に引用したツイートの写真では、サイクリストは停止線を越えてはいますが横断歩道の手前で待機しています。これは形式的には違法ですが、実質的には、歩行者に危害を加えたり、交差道路から曲がってくる車の通行を妨害している訳ではありません(四輪車の車体寸法を前提にした停止線の位置は自転車にとって無駄に手前すぎる)。このような形式的な違反行為にさえドライバーに怒りの視線を向けさせるという点が、この道路デザインの問題点です。*/

その結果、一部のドライバーが嫌がらせ(という表現では生温い、鉄の巨体を駆った脅迫・加害行為)に走る訳だが、ドライバーの精神に心労や憎悪をシステマティックに生み出す道路構造という入力を考えれば、これは避けがたい出力だ。

/* これほど酷くなくても、自転車と見ればとにかく追い越しておきたいという心理は大抵のドライバーが持っていて、その追い越し時に(自覚の有無はさておき)無理をして自転車利用者に恐怖を与えてしまう事は珍しくないでしょう。どんな状況下でも自転車の安全を優先して追い越しを保留できるドライバーは、私の感覚では全体の1、2割しかいません。*/

すり抜ける自転車乗り、強引な追い越しをするドライバー、憎み合う両者。これらは(或る程度は教育や取り締まりの問題だが)、両者に無言でそう仕向けている道路環境の問題も大きいと思う(原因の何割がソフト面で何割がハード面かは分からない)。

人の弱さ、猾さ、粗忽さ——そういった不完全さを、有ってはならない、矯正すべきものとしてではなく、寧ろ、道路設計の基準として積極的に認める事が交通安全の要である、と宣言し、実際に成功を収めているのが、オランダのSustainable Safetyではないだろうか:
SWOV. (2013). "Sustainable Safety: principles, misconceptions, and relations with other visions"
https://www.swov.nl/rapport/Factsheets/UK/FS_Sustainable_Safety_principles.pdf
/* 上の文書で理念を宣言している箇所には、"The ‘human measure’ is determined by physical vulnerability as well as by psychological characteristics: human beings , irrespective of background, education and motivation, do make errors and do not always abide by the rules(「人間尺度」は身体的な脆弱さだけでなく、心理的な特性によっても規定される。ヒトはその生い立ちや教育、意欲とは無関係に間違いを犯すし、常にルールを守る訳でもない)"と書かれています。*/

"Man is the measure of all things(人は万物の尺度なり)"という哲学者プロタゴラスの言葉を(全然違う意味で)標語にしている。
SWOV. (2012). "Background of the five Sustainable Safety principles"
http://www.swov.nl/rapport/Factsheets/UK/FS_Sustainable_Safety_background.pdf
/* 私がSustainable Safetyの理念を読んで連想したのは水族館です。例えばマンボウは、方向転換が苦手で小回りが利かない上、皮膚が弱く、ちょっとした衝撃で傷付いてしまうので、水槽のガラスの手前に透明シートを吊り下げて衝突時の衝撃を緩和したり(参考URL)、マンボウ同士がぶつかってストレスが溜まらないように給餌の仕方を工夫しているそうです(参考URL)。クラゲも飼育が難しく、壁面にぶつからないように適度な水流を作ったり、エアポンプの気泡がクラゲの傘に入らないように配慮したり(参考URL)する等の工夫が必要だそうです。要は、そこで飼育する生き物の性質に合わせて水槽をデザインしているという事です。また、当然ですが、捕食-被食関係にある魚とクラゲを同じ水槽に入れるとクラゲは食われてしまうので、両者の水槽は分けます。これは幹線道路の車道における車と自転車の関係に近いですね。動物園を比喩に使った風刺画も有ります。*/

日本の道路もドライバーとの関係だけで言えば、ヒトの不完全さを前提として捉える発想に立ってそれなりに進歩していると感じるが、自転車の通行インフラはまだ低レベルで、改善も遅い。それが各地で日々、車と自転車(と歩行者)の間の諍いを生み出している、と私は思う。

もちろん、インフラがどんなに優れていようと、利用者がルールを守らないのでは交通の秩序や安全は実現しない。今の日本では自転車利用者に対する教育も取り締まりも行き届いていないから、それらの重要性を強調する事も必要だ。

ただ、ルールの強調には、インフラの欠陥から目を逸らして利用者に責任転嫁するのに便利、という側面も有る。「問題はインフラではなく利用者の側に有るのだから」という姿勢を取れば、それはインフラの進化を停滞させる原因になりかねない(問題が有ると分かっていながら国交省ガイドラインのコピペで済ませようとするとか、ガイドラインから外れている事を理由に新たな提案を却下するなど)。

/* そして、「利用者のマナーが改善されるまではインフラの改善などしてやるものか」という感情的な抵抗はCatch-22的な状況を生み出し、却って問題解決を遅らせるのではないかと私は思っています。なぜなら—— */

人の行動は、当人が思っている以上に環境に左右されているのではないか。人は自分一人の力でルールを守っている訳ではないのではないか。ルールを自然と守れるように配慮された環境や、望ましい行動を無意識的に取れるように熟慮されたデザインに助けられている部分も大きいのではないだろうか。

私は専門家ではないから、パッと思い付くものと言えば、
  • 信号を突破するか停止するかでドライバーを迷わせない絶妙な時間長の黄色信号
  • カーブ出入り口での走行軌跡を安定させる緩和曲線
  • 右折車線への誤進入を防ぐ導流帯
くらいだが、車が自転車よりも整然と振る舞えている背景には、免許制以外にも、こうしたノウハウの積み重ねが一因に有るはずだ。

日本国内の自転車政策の議論で、そうした環境因子にあまり注目が集まらないのが、私にとってはもどかしく感じられるのである。