2014年2月18日火曜日

『自転車の安全鉄則』のウソ (2) 交通法と現実の乖離

前回からの続き。

自転車レーンをほとんど無条件に肯定する疋田氏。
その主張に問題点が無いかを検証していきます。



疋田智(2008)『自転車の安全鉄則』朝日新聞出版(第1刷)

p.28
言うまでもなく自転車は「軽車両」という名前の車両ですから、本来、車道を走らなくてはなりません。これは道路交通法第17条に明記してあります。ところが日本の場合、70年代の急激なモータリゼーションの時代に、クルマと自転車の事故が増え、一時的に自転車を歩道に上げてしまった、という歴史的経緯がありました。

自転車は車道を走るべき、という主張の根拠の一つとして、
疋田氏は道路交通法を挙げています。

ですが私は、
  • 日本の交通法規は歴史の流れの中で現実の交通実態から乖離していった
  • 現在の法令はその乖離を放置した結果が残っているにすぎない
  • しかし法が実態から乖離する前は、自転車が車道を通行するのは合理的だった

のではないかと思います。

自転車に車道走行を義務付けた最初期の法令を、
その時代背景と共に眺めてみましょう。


道路取締令(大正9年)
第二条 歩道、車道等ノ区別アル道路ニ於テハ其ノ区別ニ従ヒ通行スヘシ
2018年8月4日追記{国会図書館デジタルアーカイブ「官報 1920年12月16日」で閲覧できます。

大正時代ですから、自動車はまだまだ高嶺の花。
道路にはリヤカーや牛、馬も普通に闊歩していた時代ですね。
練馬の地域資料からその光景を垣間見てみましょう。


練馬春日町駅周辺街づくりの会(2009)
『春日町に住む77人に聞いた街の移り変わり』p.7
自転車で魚屋に豆を売りに来た。米、野菜は自給自足だった。
かまどは薪で焚き、いろり。ゴミは穴の中へ埋めて肥料にした。

・新井薬師まで下肥を買いに行き、畑の肥料にした。朝3時に起きて
牛車で15〜20軒の家を回って買って来た。その後はリヤカーになった。

・朝2時に起きて、自転車リヤカーで神田、築地、江東市場に売りに
行った。前日に荷造りをして、当日市場に置き荷をし、後日集金する。
朝8時〜9時に帰宅。朝ごはんの後、畑仕事。12時昼ごはん。
3時おやつ(さつまいも、じゃがいも)。暗くなって7時頃帰宅し、
風呂食事、8時に就寝した。

うーむ、これが東京23区内の生活だったとは……。

さて、当時の道路ですが、
リヤカーや牛車も行き交っていたわけですから、
クルマの速度もかなり低かったと考えられます。
法令からもそれが窺えます。


自動車取締令(大正8年)
第三条 自動車ノ最高速度ハ一時間十六哩トス但シ地方長官ハ道路、区域、時間又ハ自動車ノ種類ヲ指定シテ之ニ異ナル速度ヲ定ムルコトヲ得
引用元
http://members.jcom.home.ne.jp/kinmokusei/jpn_law/naimu/T08_N01.html


16mphですから、約25.75km/hです。
今の原付の法定速度より遅いですね。
近頃はやりの「ゾーン30」を地で行っています。

これほど低い速度なら、自転車とクルマ(とリヤカーと馬と牛)が
車道をシェアするのも合理的で、人々にとっても自然な事だったでしょう。

しかしその後、自動車の性能向上や道路の舗装化が進み、
クルマの速度は50km/h、60km/hとどんどん伸びて行きます。

にも関わらず法令は自転車に車道走行をさせ続けますが、
それは何か科学的な裏付けが有って積極的に維持していたというよりは、
深く考えずに惰性で規定を引き継いでいただけなのではないかと私は思います。

その証拠に、1970年代に差し掛かる頃には
車道上で自転車とクルマの事故が続発し、
慌てて歩道走行を合法化しています。

これは、法が現実社会から乖離してしまっていたのを
曲がりなりにも修正した動きと捉える事もできますね。
後先考えない、酷い弥縫策ですが。

(しかし、その弥縫策によって、短距離かつ低速の利用ながら
日本の自転車のトリップシェアが高く維持されてきたのも事実です。
もし強行に車道走行をさせ続けていれば、
人々は次第に自転車から離れていってしまったでしょう。
その「もし」を物語るのが数年前までのロンドンの歴史です。)

何はともあれ、「法律だから」は根拠として力が弱すぎます。
法律には別に不変の真理が書かれている訳じゃありませんから。


---


今回は法律を見てきましたが、
疋田氏が自転車レーンを勧める理由は
これだけではありませんから、次回以降、
その他の根拠についても見ていきます。



シリーズ一覧